私は早く飯が食い度くて堪らない。けれども、山東京伝は、食えとも何とも云ってくれない。食えとか何とか云うのが、厭なのかも知れない。そうだと、無闇に遠慮しているのは、却って悪いかも知れないから、食おうかと思った。けれども、そうでないのかも解らない、今丁度食えと云おうとして居るところかも知れない、すると私が無遠慮に箸をつけるのも、亦よくない。
・・・・・・・・・
「只今、まことに小ひさな方が、玄関から上がってまいりました」
「何ッ」と山東京伝が非常に愕いた変な声を出した。聞いてる方がびっくりして飛び上がる様な声であつた。私はまた同じ事を云った。
「只今、まことに小ひさな方が、玄関から上がってまいりました。式台に、かう両手をついて・・・」
「そらッ」と山東京伝が、いきなり、駆け出した。
・・・・・・
すると山東京伝が急に後ろを向いた。その顔が鬼のように恐ろしい。
「気をつけろ。こんな人間がどこにある」さういって山東京伝はにじりよって私を睨んだ。
「これや、山蟻ぢゃないか」
・・・・・・・
「士農工商、云ったって駄目だ。君の様に頼り甲斐のない人はない」
私はうろたへて「誠にもうしわけ御座いまぜん」と云った。
「いや、あやまってすむ事ではない」と山東京伝が云った。
・・・・・
「出て行け」と云ったきり山東京伝は黙ってしまつた。もう、なんにも云はない。私は、たうとう、山東京伝の所を追ひ出された。
・・・・・
解つた。蟻は丸薬をぬすみに来たのである。それだから、山東京伝が、あんなにうろたへて、怒ったのだろう。けれども、山東京伝が、どうしてそんなに丸薬を気にするんだか、それはわからない。
(「山東京伝」内田百)
内田百けん (ちくま日本文学 1)クリエーター情報なし筑摩書房
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「只今、まことに小ひさな方が、玄関から上がってまいりました」
「何ッ」と山東京伝が非常に愕いた変な声を出した。聞いてる方がびっくりして飛び上がる様な声であつた。私はまた同じ事を云った。
「只今、まことに小ひさな方が、玄関から上がってまいりました。式台に、かう両手をついて・・・」
「そらッ」と山東京伝が、いきなり、駆け出した。
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すると山東京伝が急に後ろを向いた。その顔が鬼のように恐ろしい。
「気をつけろ。こんな人間がどこにある」さういって山東京伝はにじりよって私を睨んだ。
「これや、山蟻ぢゃないか」
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「士農工商、云ったって駄目だ。君の様に頼り甲斐のない人はない」
私はうろたへて「誠にもうしわけ御座いまぜん」と云った。
「いや、あやまってすむ事ではない」と山東京伝が云った。
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「出て行け」と云ったきり山東京伝は黙ってしまつた。もう、なんにも云はない。私は、たうとう、山東京伝の所を追ひ出された。
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解つた。蟻は丸薬をぬすみに来たのである。それだから、山東京伝が、あんなにうろたへて、怒ったのだろう。けれども、山東京伝が、どうしてそんなに丸薬を気にするんだか、それはわからない。
(「山東京伝」内田百)
内田百けん (ちくま日本文学 1)クリエーター情報なし筑摩書房