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中国の死刑執行突出

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中国の死刑執行突出、数千人か アムネスティ報告



国際人権団体アムネスティ・インターナショナル(本部ロンドン)は10日、2012年の世界の死刑に関する報告書を発表、中国の死刑執行数が世界で突出し、数千人に上る可能性があると指摘した。ただ「信頼に足る情報が公開されていない」として、中国の具体的な死刑執行数は報告書に記載していない。

報告書は中国の国営メディアが「死刑をめぐる社会的議論を喚起するのに必要な情報を伝えていない」と批判。公正を欠いた裁判の結果、死刑が科されている例もあるとして、中国の司法制度の不備も指摘した。

報告書によると、中国を除く20カ国・地域では昨年、少なくとも計682人の死刑が執行され、11年とほぼ同じ規模だった。

中国に次いで死刑執行が多かったのはイラン(少なくとも314人)、イラク(同129人)、サウジアラビア(同79人)の順で、中東が目立った。米国は43人、日本は7人だった。

(2013年4月10日産経ニュース)


アムネスティ・インターナショナル(Amnesty International)
国際連合との協議資格をもつ、国際的影響力の大きい非政府組織(NGO)である。
国際法に則って、死刑の廃止、人権擁護、難民救済など良心の囚人を救済、支援する活動を行っている。
和名は「国際人権救援機構」。

中華人民共和国における死刑

清末期の1905年までは、斬首刑や絞首刑等とともに、凌遅刑が行われていた。
凌遅刑(りょうちけい)とは、清の時代まで中国で行われた処刑の方法のひとつ。
生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑。
死体を陵辱するという刑罰は孔子の弟子子路が反乱で落命し体を切り刻まれ、塩漬けにされる刑罰を受けたという記述が『史記』「孔子世家」にある。
また漢代には彭越が死骸を切り刻まれた上で塩漬けにされた。また首を市にさらす棄市という処刑法もあった。
しかし、秦、漢、魏晋南北朝、隋唐までは、反乱者といえども単なる斬首刑で死刑になるのが原則であり、凌遅刑が法制化されたのは五代十国時代である。宋代には斬首、絞首とならぶ死刑の手段とされた。
「長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑」としての凌遅刑が定着したのは、征服王朝の影響も存在する。金(王朝)ではモンゴルのアンバガイ・ハーンに対して「木馬に生きながら手足を釘で打ち付け、全身の皮を剥がす」という処刑方法を行った。


2011年現在でも死刑制度を維持しており、執行件数は世界中で最も多いとされる。
ただし、中国は死刑執行件数を公表しておらず、正確な件数は明らかとなっていない


中華人民共和国刑法では
故意の殺人による生命を侵害する犯罪
国家機密の漏洩などスパイ行為による政治的犯罪
故意の傷害や放火、電力設備等破壊などの悪質な暴力・破壊行為
麻薬密輸・販売等の薬物犯罪
賄賂授受や業務上横領などの汚職行為
金融詐欺や通貨偽造などの経済犯罪
人身売買
売春や性犯罪
文化財密輸
武器、弾薬や毒性物質等危険物の窃盗
など生命を奪わない犯罪でも死刑が規定されている。



女性死刑囚は死刑を実行する直前の瞬間=中国


抽腸
春秋時代から長らく続いていた中国の処刑法。
“抽”は、ひっぱって取り出すこと。“腸”は内臓の、大腸・小腸の腸。
つまり平たく言うと、「腸の引きずり出し」。

切腹や腹割りなど、対象の身体を切り開いて内臓を取り出す方法ではなく、
肛門に鉤針を差し入れて直腸壁をひっかけ、鉤針を引くことで内臓を取り出す処刑方法。

鉤針を引く動力は、人力や、吊り下げた石の重みや、走らせた馬などの力などさまざま。
ショック状態に陥らなければ対象は短時間生きているし、自分の内蔵が引き出される様子も目撃できるため、
見せしめとしての効果が高い処刑方法。


中世紀極度恐怖索命刑具大揭秘【抽腸機】

腹裂きの刑
中国では腹裂きの刑を「剖腹」(ほうふく)と呼ぶ。そのうち腸の引きずり出しに重点を置いたものは「抽腸」(ちゅうちょう)という。

倫理司法:中国古代司法的観念与制度(中国語) (中国司法研究書系)クリエーター情報なし法律出版社

中国拷問・処刑残酷史―絶叫!血も凍る残虐地獄 (にちぶん文庫)クリエーター情報なし日本文芸社

死刑の比較研究―中国、米国、日本クリエーター情報なし成文堂


甘粛省張掖市甘州区に住む琳子は19歳。近所では評判の愛らしい少女でした。
実家は貧しく、甘州区の家電店に勤める彼女は甘州区西関三社に部屋を借りてひとりで住んでいました。
2004年8月17日の晩、この琳子が無残な死体となって発見されました。下半身から腸を引きずりだされ、その腸が首に巻きつけられていたのです。警察ではすぐに特捜本部を立ち上げましたが、この人々を震え上がらせた「掬腸」事件は一ヶ月後にふたたび発生します。現場はおなじ甘州区でした。

大満郷平順村に住む小花は17歳。姉が大学に通い、弟も高校に通うようになったため、小花は家計を助けるために、高校を中退して働きに出ることを決心しました。
2004年の9月初め、小花は甘州区東街にオープンしたばかりの牛肉麵館で働きはじめます。事件が起こったのは、小花が仕事にもようやく慣れはじめた9月20日のことでした。

夜中の0時半、ようやく一日の仕事を終えて休息をとっていた小花は便意を催し、麵館の外にある便所に向かいました。ここでたまたま店の前をうろついていた、琳子を殺害した男と出くわしたのです。男は小花を捕らえると所持していた縄を彼女の首に巻きつけて絞めはじめます。やがて意識を朦朧とさせた小花は男の手の中に崩れ落ちました。

店で小花の帰ってくるのを待っていた麺館の女店主、明は小花の悲鳴を聞きつけ、飛び出しました。しかし便所を捜しても小花の姿はありません。悲鳴は隣近所にもとどいたのでしょう。人々がやって来てともに小花を捜しはじめました。
小花は建物の後ろの廊下に倒れていました。
「小花、どうしたの、なにがあったの、しっかりして」。しかし答えはありません。廊下に灯はなく、弱々しく息を吐きながら倒れている小花を抱え起こした明は、ふと小花の腿のあたりにぬるっとしたものを感じました。手であらため、目を凝らしてよく見ると、それは小花の腸です。腸は小花の腰のあたりにひと山となってかき出されていました。あたりに血と糞便のまざった臭いが立ちのぼります。
明は気が遠くなるのをこらえて救急車を呼ぶとともに警察に通報しました。

24日午前、記者は小花の入院先の張掖市人民病院を訪れました。付き添っていた母親は真っ赤に目を腫らし、その声はすでに掠れています。事件から4日経ち、当初の昏睡状態からは醒めたという小花ですが、目は依然血走り、声は出ず、しきりに体を細かく震わせていました。首には絞められた跡が記者の目にも見てとれます。
記者が取材している間、小花が横たわっている普外科(普通外科)の急救室に訪れた人々はいちように目を潤ませ、小花の手をとります。小花はそれにも気づかぬ様子で虚ろな目を上に向け、痙攣するように体を震わせ続けました。

麺館の店主、明によると小花が便所に行きたいと言ったとき、もう外は暗いからと、明は店にあった便盆(おまる)ですることを勧めたそうです。しかし小花は恥ずかしがって店の外の便所に向かいました。彼女の悲鳴を聞いたのはそれから5分後。店から飛び出た明は付近で3人の男の姿を見たと言いました。廊下で小花を発見し、気づいたことにはすでに男らの姿はなかったそうで、彼らが犯人であるかどうかもわからないといいます。

小花を診た張掖市人民病院普外科主任、柳佰富医師の話では、小腸および大網膜(腸間膜)の大部分が脱落、膣からかき出されており、小腸のみでも断裂は5、6箇所、小腸を覆う漿膜はほぼ剥落し、小腸全体での壊死部分は2メートルに及んだそうです。
また膣内および小腸に刃傷が見あたらず、小腸は膣壁から直接手で引きずりだされており、その時間も10分足らずというところから、ある程度の医学知識をもった人間でなければこうした犯行は不可能とのことでした。

麺館の女店主、明は念願叶って三ヶ月前にオープンした店を事件の後に閉鎖。もっている貯金をすべて小花の治療費にと差し出しました。しかしすでに1万数千元が費やされ、明もこれ以上どうすることもできないと嘆きます。
病院側では小花の家の事情、そして明の厚意を受け、全力で小花の生命維持に取り組んでいますが、心配される合併症を防ぐ治療なり薬なりはまだ小花の体力が回復しないために使用できない状況。

マスコミ各社は報道とともに、全国から義援金を募り、新華社では1日で省福彩(福祉宝くじ)センターなどからの寄付1万4千元を病院に届けました。
また、小花の件に関しても特別捜査本部をたちあげた甘州区公安局では、事件の性質上、人々に与える影響の大きさを考慮して全力で犯人逮捕に向かう旨を告げました。

事件から6日後、それまでに500数人を取り調べた甘州区公安局は東胡のマンションに住む、前科のある男を容疑者と断定。24時間の監視の後に29日、午後4時40分に姿をあらわした男、喬建国(34歳)を重要参考人として同行を求めました。喬は翌日30日には容疑を認め、拘留されました

喬建国は身長が1m82cmの大柄で、学歴は初級中学。建築関係の仕事に携わっていた父はすでに定年退職。1970年にこの父の5番目の息子としてうまれた喬には3人の姉と1人の兄がいました。
年の離れた姉たちとは諍いも無縁で育った喬は両親にもいたく可愛がられ、わがまま放題に育ちます。結果、18歳のときには窃盗グループにくわわり、1989年に逮捕され、張掖裁判所にて6年半の懲役を言いわたされました。

1994年には釈放、しかし生活は改まらず、ふたたび昔の仲間たちと組んで窃盗をおこなうかたわら、喬はこの頃から酒癖が悪くなり、また麻薬にも手を出しはじめました。こうしたことから喬は2001年に労働教育所に矯正入所させられ、矯正をうけることとなります。教育所から出所したのは2004年3月のことでした。

教育所を出所しても相変わらず働くでもなしに甘州区の北街付近をぶらぶらしていた喬は、ここで琳子と知り合いました。琳子が独り身だと知った喬は、おれと付き合えとばかりに琳子を口説きはじめます。言葉も粗野で、自分の前科を語ってなかば脅すように、琳子の休みの12日に会おうという喬に彼女は怯えました。
酒に浸った喬は、待ち合わせの時間に来なかった琳子を捜します。間が悪いことに両親のところからちょうど西関三社の自分の部屋にもどる途中だった琳子がやって来ました。喬は琳子を口汚く罵ると彼女の部屋にまで付いていき、勝手にあがりこみます。夕方になり、雨が落ちはじめました。

激しくなった雨をついて、喬が琳子を表にひっぱり出しました。真夏の驟雨。ずぶ濡れになってもみ合いながら、喬は琳子を部屋から500メートルの林に連れ出します。喬はここで琳子の首を絞めました。
ぐったりして動かなくなった琳子ですが、死んだかどうかはわかりません。喬は琳子が目を醒まし、警察に駆け込まれるのが怖かったといいます。行為そのものの動機は不明ですが、喬は琳子の下に手を伸ばすと、腸を引きずりだし、琳子の首に巻きつけてその場を去りました。

犯行は社会への報復が動機でした。窃盗、酒に酔ってはケンカ、そして麻薬。青春期の8年余りを監獄や教育所で費やしたことに対する恨みが喬の中に渦巻いていました。
そんな喬は3月の出所の後、飲み屋で知り合った女と恋仲になり、一時は結婚もと願っていたといいます。しかし自分の思い通りにことが運ばないとふてくされ、次第に離れていく女に対してどうすることもできず、その不満が向けられたのが琳子であり、小花でした。
小花への傷害は行き当たりばったりの犯行。喬の友人の話によると、犯行の前後でとりわけ変わった様子は見られず、近いうちに結婚することをほのめかしてもいたそうです。

喬は2005年12月、張掖中級裁判所で故意殺人罪で死刑が言いわたされましたが、直接証拠がないという理由で、2007年1月の甘粛高級裁判所では、刑の執行を2年延期する死緩に改められています。
小花にその後寄せられた義援金は新華社だけでも6万数千元。命はとりとめたことが報じられましたが、その後は不明です。

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